風連鍾乳洞は大分市から国道10号線を37km南、大野郡野津町泊にあり、大正15年の発見された国指定の天然記念物です。洞の奥行きは500m、閉塞型の鍾乳洞で外気の侵入が少なく、風化作用されなかったため、記念物は光沢がよく、均整のとれた最も美しい形で成長し、純白に近いのが特色です。最後の広場は面積15aもあり、洞内最大の記念物、競秀峰は、高さが10m、まわりが16mで、その美観の美しさは(元)日本ケイビング協会長(愛媛大学助教授)山内浩先生より日本で一番美しい記念物であり、代表的な鍾乳洞であると折紙がつけられました。
従って、一般の観光はいうまでもなく、修学旅行生には良き教材として高く評価されています。自然の冷暖房で夏は涼しく、冬は暖かい日本一美しい風連鍾乳洞へどうぞおいでください、お待ち申しております。
野津町の岩瀬地区にちょっと変わった孟宗(モウソウ)竹があります。キンメイモウソウといい県指定天然記念物となっています。孟宗竹の突然変異で鮮やかな緑色と黄色とが交互に節を彩ります。
昭和45年ごろに生息しているのが確認され、その後雑木の伐採などの環境整備を行った結果、昭和52年ごろには約700本まで増えて現在はもっと多くなっています。現在キンメイモウソウが確認されているのは福岡県、高知県、宮崎県など西日本の数ヶ所でしか確認されていません。
文永4年(1267年)に造立され、鎌倉時代の層塔として大分県を代表する石造美術品のひとつです。石質は凝灰岩、総高595センチ、基礎は高さ43センチ、巾106センチ、四面には大形の格狭間が一個ずつ刻まれています。軸部は四角で、初重は高さ78センチ、巾77センチで東面には薬師、南面には釈迦、北面に弥 、西面に阿弥陀の順で四仏が陽刻してあります。また北面の向って左端には、「起立文永ニ大歳ニ丁卯(西暦一ニ六四年)卯月八日僧定仙敬白」(特色としてニの字を二つ重ねて四をあらわしている)と銘文が刻まれています。豊後の石造塔婆のあらゆる要素はこの塔を基にしているといわれています。
文政7年(1824年)に架橋された九州を代表する石橋と称されています。石造アーチ式、総長31mで三重町と野津町の間を流れる三重川をまたぐ、頑強で高雅優美な橋です。170年間、県道竹田~臼杵線の大動脈として地域発展のために貢献しました。
大友氏二代目当主の五男が、普賢菩薩を夢に見たことから1294年に建立されたと伝わる寺院。境内付近には多くのカエデ等が植えられており、毎年紅葉の時期である11月には夜間のライトアップがなされます。
また普現寺近隣には豊後(大分)の奇人と呼ばれた吉四六さんのお墓もございます。
古園石仏大日如来像に代表される臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われています。その規模と、数量において、また彫刻の質の高さにおいて、わが国を代表する石仏群であり、平成7年6月15日には磨崖仏では全国初、彫刻としても九州初の国宝に指定されました。その数は、60余体にもおよび、このうち59体が国宝となりました。石仏群は4群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石仏)、同第2群、山王山石仏、古園石仏と名づけられました。それぞれに、傑作秀作ぞろいであり、表情豊かな御仏の姿は、みる者の心にやすらぎをあたえてくれます。
丹生島城・亀城とも呼ばれていた城跡です。キリシタン大名として有名な大友宗麟の居城だったため、石垣にはアルファベットの様な文字が刻まれ、城内には礼拝所が、城下にはキリシタンの修練所があったそうです。築城当時は丹生島と呼ばれる孤島上の城郭で、周囲の海が天然の要害となり、堅固な守りを誇っていました。現在は2つの櫓と書院の庭園の一部、石垣などを残すだけで、丹生島も埋め立てによって陸続き。サクラの名所としても有名です。
二王座は、阿蘇山の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘で、あちこちの岩を削り取って道を通しました。特に、旧真光寺の前は「切り通し」と呼ばれる、臼杵を代表する景観のひとつです。辻から入ると上級の武家屋敷が立ち並び、田町側から登っていくと、多くの寺が集まっています。この地域にかつて春日局も住んでいたとか。二王座は、昔日の名残を今もとどめています。平成5年11月には国の都市景観100選にも選ばれています。
大分県はキリシタン大名として知られる大友宗麟の影響が強く、各地に隠れキリシタンの遺跡が多く残っております。野津町でも横穴式古墳を利用した地下礼拝堂が存在し、施設内には天井や内部の五輪塔にい掘られた多くの十字がみられ、キリシタン弾圧の強かった時代における人々の強い信仰心をうかがうことが出来ます。